発表概要は以下の通りです。
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行政経済文書ではディルムンはMAR.TUと結びつく特徴が見られる。中でもディルムンからやってきたMAR.TUと呪術師を饗応するヒツジなどの支出記録(前2044年頃)は、MAR.TUがディルムンに居住した証拠となる。
また、ユーフラテス河中流域の半農半牧畜民であったMAR.TU(マルトゥ/アムル/アモリ人)の集団がペルシャ湾岸縁の小都市キシグ(Kisig, 現Tell al-Lahm)に住み着き、有力者ナプラーヌム(MAR.TU)がこの地で繁栄した事実については、交易船が係留する港町でディルムン交易に参入した結果と思われる。
こういった文書の数年前すなわち前2050年頃、バハレーン島では壁に囲まれた都市国家が誕生し湾岸交易中継を独占するようになる。以前はアラビア半島東側沿岸とバハレーン島を指していたディルムンの名称もバハレーン島のみを示すようになった。
ナプラーヌム言及文書のほとんどが出土したプズリシュ・ダガンに家畜集積・再分配センターが設置された時期、MAR.TUがキシグだけでなくディルムンにも居住した証となる文書の時期、バハレーン島における都市国家出現時期、これらは前2055年から15年 の間の出来事で、すべてが連動して起こったと推測される。
(文責:堀岡晴美)
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日本西アジア考古学会第19回総会・大会のプログラムは以下のリンクよりご参照ください。
http://jswaa.org/jswaa/19program.pdf
今後も、学会や各発表会を通じて、バハレーンの考古学に関する情報を発表していきます。 (R.H)